*砂漠の天使

 

 

「ケイっ!」

 焼けた空気が喉を焼き、吹き零れた汗が、足元にまだら模様を描く。乾いた砂が風に撒かれて、足元を掬っては焼けた奈落の底へといざなう。

 視界の先、数十メートル離れた所に見える白い物体。それに向かって、俺は大声で叫ぶ。

「……ケイっ!」

 ちりちりと肌をなぶる天上からの熱。頭から顔まで巻きつけた布が風に煽られ音を立てた。思わず、舌打ちを漏らす。声が聞こえぬ距離ではなかろうが。何に集中しているのかは知らないが、良い加減にして欲しい。

 転ばぬよう、細心の注意を払いながら砂丘を乗り越える。靴を焼く砂を踏みしめ、俺は大股で近付く。

「何してるんだ、こんなところで」

「んー」

 白い物体が顔をあげる。砂に汚れた顔が俺を見上げた。日に焼けた褐色の肌。頭から顔を覆うように巻いた布から見え隠れする金色の毛。そして、砂漠の空を写し取る大きな青い瞳。無邪気な笑みがその顔を縁取った。

「タオだぁ」

「タオだ、じゃない。いきなりいなくなって……何してんだよ」

 目に染みる汗を手の甲で拭い、地面にうずくまるようにして座る少女――ケイに言う。ケイは砂の中に手を差し込みながら、

「うみ」

「はっ……?」

「うみ、探してるの」

 表面は日差しに照らされ焼けるように熱い砂も、中はひんやりと冷えている。ケイは目を輝かせて、

「砂の底には『うみ』があるのよ。じーちゃんが言ってた」

「……あんの、くそじじぃ!」

 拳を震わせ、ここにいない人物に対し悪態をつく。

「あのな。砂の下には砂しかない。『うみ』なんてただの作り話だ」

「でも、うみの卵を見つけたよ」

 差し出された砂まみれの手。大事に包み込まれたそれ。親指大の茶色い塊をケイは示した。

 

 ずっと昔。『うみ』という大きな水場があったという。全ての生き物がそこから生まれ、母なる『うみ』と呼ばれていたという。だけど、『うみ』は星の支配者たちが起こした戦争によって消え失せ、残ったのは乾いた大地だけ。そして、支配者たちも長い戦争の末、互いに潰しあい僅かな数以外は滅び去った。残った者達は水を求め、オアシスを中心に小さな集落を築いた。それが、今の俺たちが生きる場所だと言われている。

 

「おぉ、これは種じゃな」

「たね?」

 ケイは小首を傾げる。さらり、と少し長めの髪が頬の横を流れる。金色に輝く髪は、幼い動作に良く似合い、見るものを和ませるような可愛らしさを醸し出していた。

 ケイと向かい合って椅子に座るじいさんは指先で茶色の塊を摘まみ、

「昔、昔。まだ世界が美しかった頃。世界を緑に染めていた植物のいわば、子供じゃ」

「子供?」

 ケイの手の平に茶色の物体――種を戻し、しわくちゃの手でケイの頭を撫でる。

「水を与えると、そこから芽が出て、葉を伸ばし、花をつけるのじゃ」

「すごーい」

 じいさんの言っていることなど半分も理解していないだろうが。俺は息を吐くと、ケイの背後から種を奪い取った。

「あー」

「じいさんの話なんて真に受けるな。全部嘘なんだから」

「嘘じゃないわい」

 ケイは座ったまま、器用に跳ねて俺の手から種を取り返そうとする。俺は手を高く掲げて、その指先を遠ざける。

「んー」

 ケイの表情が歪む。青い瞳がじっと俺を見つめる。無言で訴える眼差しに俺は早々と敗北する。

 俺はその手の中に種を戻してやった。ケイは大切そうに種を握り締めると、俺にもう二度と奪われないように服の中に仕舞い込もうとするが、上手く仕舞い込めずにもたつく。

 俺と同じ、十六歳を数えるはずなのにケイの言動はまるで幼子のようだった。

 俺は五才の時、このオアシスに置いていかれた。おそらく、子供を養う余裕なんてなかったのだろう。幸いにも俺はじいさんに拾われ、脱水と飢え死だけは免れた。一方のケイもまた両親に捨てられ、やはりじいさんに拾われた。自力で生きることさえ困難だというのに、よくもまぁ、二人もの子供を育てようだなんて思ったもんだ。おかげで、俺はこの歳まで順調に育つことができた。

 だが、ケイは順調にはいかなかった。ケイはココロが壊れている。無邪気に無垢に、壊れたココロは成長を止め、まるで幼い子供のよう。それが、ケイが捨てられることとなった理由なのか、それとも捨てられたことでそうなってしまったのかは定かではない。

「ケイは天使なんじゃ。いつまでも綺麗で無垢な天使なんじゃよ」

 じいさんはケイのことをそう称した。

 天使というのは、神様――世界を作った人物の使者のことらしい。もちろん、ケイが天使でないことくらい、俺は知っている。だけど、ケイが綺麗で無垢なのは確かだ。砂漠という環境下で、穢れを知らない綺麗なケイ。無邪気に笑う事が出来るケイ。

 ずっと幼いままの可哀相な天使。過酷な砂漠を生き抜くすべを天使は知らない。だからこそ、俺がケイを守らなければならない。俺がケイを守らなければ、ケイは生きていけないのだから。ケイを守ること――それは義務というよりも、最早、俺の使命だった。

 

「……なんだ、これ?」

「んー、たね」

 一夜明けて、砂を固めて作った家の前に小さな砂山が築かれていた。この中に種があるらしい。種が花となるために必要なことをじいさんに吹き込まれたのだろう。

 ケイはその前にしゃがみ込み、カップの中の水を山の(いただき)にかけていた

「……水がもったいない」

「ケイの、飲む分減らすから大丈夫よ」

 ニッコリと笑ってケイは、砂山に全ての水をかけおわると満足そうに頷いた。俺は黙ってケイの頭を撫でる。日差しに焼かれているはずなのに、ケイの髪は手触りが良い。

「あぁ、そうだ。今日はチョウさんのところに行くんだった」

 チョウさんはこのオアシスで商いをしている。じいさんの古馴染みで食べ物とかを格安で譲ってくれるのだ。かなり世話になっている御仁で、俺たちがなんとか暮らしていけるのもチョウさんが融通を利かせてくれるからだ。

「ケイも行く!」

 俺の呟きに反応して、勢い良くケイは立ち上がり、俺の手を掴んだ。

「行くぅ!」

 連れて行かなければ放さないとばかりに、強く俺の手を握る。

「分かった、分かった」

 俺は頬を掻きながら、繋いだ手を引いて歩き出した。

 

「おぅ、相変わらず、仲良しさんだね」

 俺たちの姿を認めたチョウさんは開口一番、そう言った。歳相応に禿げ上がった日に濃く焼かれた頭部。皺が刻まれた顔を覆う濃い髭。

「仲良しよぉ。タオとケイは仲良しさん」

「はっははは、そうかそうか」

 チョウさんは、駆け寄ってきたケイの頭を撫でる。幼い子供のようにケイは表情をほころばせた。

「今日は良いものがあるぞ」

 ポケットを探り、チョウさんが取り出したのは小さな包み。それをケイに手渡す。

 ケイは短くお礼の言葉を口にすると、慎重な手付きでそれを開いた。中には小さな四角い白いものが幾つか入っていた。

「砂糖菓子だ。食べてごらん」

 促されるまま、ケイはそれを口に運ぶ。

 次の瞬間、砂に汚れた顔に浮かんだのは驚きと感動。ケイは弾かれたようにチョウさんを見上げた。

「……甘い」

「砂糖菓子だからね」

 ケイはくるり、と身体を反転させると俺の傍にやってきて、

「タオ、タオ。甘いよ。食べる?」

「いや、俺は良い」

 俺はチョウさんに目を向けた。チョウさんは喜んで砂糖菓子を食べるケイに優しい眼差しを送っている。

「わざわざ、すいません」

「いいや、ケイちゃんがこんなにも喜んでくれるだけで、こっちは十分さ」

 端から見ればきっと奇妙でしかない。見た目は普通の少女なのに、それにつりあわない言動。オアシスに住む全員が、ケイのことを受け入れているわけではないのを俺は知っている。気違いだと、侮蔑の目を向けるものがいて、時には直接的な暴力を向けてくるやつだっている。――まぁ、そういうやつは二度とそんな気が起きないようにしてやったけど。

 それでも、チョウさんのように、ケイを受け入れてくれる人だっているのだ。それが俺には嬉しい。

「それでチョウさん」

「あぁ、分かってるよ。ちょっと待っててくれ」

 チョウさんはいったん、家の中に引っ込むとすぐに戻ってきた。

「これだろ」

「ありがとうございます」

 差し出されたのは、小さな瓶。黄色い液体が揺れている。

「それで、じいさんの具合はどうなんだ?」

「ケイに余計なことを吹き込む程度には元気です」

 そうか、そうか、とチョウさんは声に出して笑う。いかに、元気に見えていようとじいさんもそれなりの歳だ。特に最近では肺の調子が悪い。少しでも良くなればと、チョウさんに薬の確保を頼んだのだ。

「えっと、お代は……」

「いいよ、いいよ。わたしゃも昔じいさんに散々世話になったしな」

 懐から皮袋を取り出そうとした俺の手を押し留めて、チョウさんは言う。

 正直、俺一人で三人分もの食い扶持を稼ぐのはきつい。砂漠で僅かに生きる生き物を捕らえて売ったり、遠い井戸から水を運んで売ったり。いくら働いたところで、その日暮らしの生活が精一杯だ。それはチョウさんでも大して変わらないだろうに。

「ありがとうございます」

「いいって事よ」

 チョウさんは大きく口を開けて笑いながら、俺の肩を叩いた。

「それより……」

 笑いが収まった後、不意に、チョウさんは顔を曇らせて、

「近々、ゴンデラから視察隊が来るらしい」

「ゴンデラ? 視察隊って……」

「名目は砂漠の各オアシスの現状を調査ってことらしいが」

「…………」

 ゴンデラとはここから北に数十キロ離れた所にある、大きなオアシスだ。ぐるりと円をかいた土壁がオアシスを取り囲み、許可のないものの侵入を防いでいるらしい。

 オアシスが大きいということは、そこで得られる恵みも大きいということだ。土壁は、その恵みを守るため、ゴンデラの住民が作ったものだ。ゴンデラの住民はオアシスの恵みを独占し、周辺の小さなオアシスに食料などを売ることで、大きな権力を持つ都市となった。俺たちが暮らすこのオアシスも地下でゴンデラと繋がっているという話である。本当かどうかは知らないが。

「視察隊とは変に諍いを起こすわけにはいかん。目をつけられたら厄介だ」

「……そうですね」

 視察隊。正直、あまり覚えの良い連中ではない。ゴンデラ出身というだけで、他のオアシスの住人を見下す連中。自分たちのおかげで生きていられるのだぞ、と当然のように言い放つ奴ら。ゴンデラからの支給によって救われているのは事実だから反論しようがない。

 だから、余計に奴らは偉ぶる。

「何事もなく、過ぎればいいんだがね」

 チョウさんの呟きが、なぜか不吉なものに聞こえた。

 不意に、服の裾を引かれ、俺は振り返った。ケイが服の裾を掴んで俺を見上げている。

「じーちゃんにも、甘いのあげるのよ」

 すでに幾つか食べてしまったらしい。残り僅かになった砂糖菓子を示してケイはニコリと笑う。もともと、そんなに数はないのだから、全部食べてしまえば良いのに。そうは思ったが、口にする事はない。

「それじゃあ、チョウさん。これありがとうございました」

「おぉ、ケイちゃんもまたな」

「バイバーイ」

 来たときと同じように手を繋いで歩き出す。ケイは砂糖菓子を手に、俺は薬の瓶を手に。

 

「タオっ! タオっ! 大変よぉ」

「うっ!」

 ぼすっ、という音ともに、寝ていた俺の上に重みが乗っかる。俺が寝ているところにケイが飛び乗ってきたのだ。

 ケイは小さいほうだから、それほど打撃を受けなかったが、運悪く、ケイの肘が脇腹を抉り、暫く痛みに耐えなければならなかった。

「大変よぉ。タオ、起きて」

「ちょ……と待てって」

 ケイは慌てた様子で、俺を家の外に引っ張っていこうとする。

 俺はまだ完全に開いていない目を擦りながら、引っ張られるがままについていく。

「一体、なにが大変なんだ」

「たねさんが……」

 たねさんって、誰だよと寝ぼけた頭で考える。

「ほらほら」

 そうして、示した先。数日前にケイが作った砂山。その頂上から緑色のものが伸びていた。

「はな!」

「……いや、違うと思うけど」

 確か、じいさんの話だと芽のあとに葉が出て、そして花らしいから、これは芽ということか。にしても、あんな茶色い塊から、こんな鮮やかな緑が生まれるなんて。たまにはじいさんの言う事も信じてみるものだ。

「もう少し成長したら、花が咲くだろうな」

「咲くの。さくぅ」

 ケイは上機嫌で、良く分からない歌を歌い始める。俺はその姿を見ながら、急に悲しい気持ちになった。

 こんなわけのわからない種でさえ、確実に成長していくというのに、ケイはずっと幼いまま。時を止めてしまっている。

 ケイがあげた水滴を纏わりつかせる小さな芽。俺はそれを踏み潰したい衝動に駆られた。

 そっと手を伸ばして、その芽に触れてみる。水をあげたばかりなのだろうか。土は僅かながら湿り気を帯びている。小さな芽。一握りで潰すことの出来る小さな命。弱く儚い存在。俺はそっと指に力を込めて――。

「タオ!」

 ぐい、と服を引かれ、俺はハッとして我に返る。よろめきながら振り返れば、ケイが少し怒ったような顔をしていた。

「はな、ケイの。触っちゃ駄目よ」

 俺を砂山から引き離そうと腕を引っ張る。自分がしようとしたことをケイに見透かされたようで、俺はばつが悪かった。

 ケイは俺が触ったせいでへこんだ砂の表面を指先で整えている。ケイが何かに夢中になることなんて珍しい。いつだって、俺にべったりくっついているのに、種を拾ってから暇さえあればこうして種の様子を窺っている。

「ケイ、飯にするぞ」

「はーい」

 家の中に戻る俺の背に返る声。だけど、すぐにケイが駆けて来る様子はなく。なんとなく、寂しい感じがしたのは気のせいだ。

 

 食事の最中も、その後も、ケイは嬉しそうにじいさんに種の話を聞かせている。何度も何度も同じ話が繰り返されるが、じいさんは嫌な顔一つせずに聞いている。

 じいさんは最近ではすっかり足腰が弱り、寝ていることが多くなったが、ケイが傍に来ると身体を起こして、ケイの話を聞いてやる。俺としては、そんなことをしていないで寝ていて欲しいのだが、じいさんは取り合わない。俺は、息を一つ吐く。

 そのときだ。不意に、外が騒がしいことに気がついた。

「ゴンデラの視察隊だ! 視察隊が来たぞ」

 オアシス中に響くほどの声が轟いた。チョウさんが言っていた視察隊が来たのか。思っていたよりも随分と早い。

「視察隊ってなぁに?」

 外の声がケイの耳にも届いたのだろう。聞きなれない言葉に目を瞬かせている。

「家から出るなよ」

 念のため、釘を刺してから、俺は外を覗き見た。オアシスの住人は一斉に自分の家に引っ込むか、視察隊を見に出ていく姿もちらほらある。だが、その中に女性の姿は見られない。当然と言えば当然だ。以前、視察隊が来た時は、幾人かの女性が視察隊に連れてかれてしまったのだ。一時の慰み者として。連れて行かれた女性たちがここに戻ってくる事はなかった。別のオアシスに迎え入れられたのか、或いは考えたくもないが途中で捨てられ砂漠の砂となったのか。

 何が何でも、ケイだけはそんな目に合わせるわけにはいかない。俺は室内に戻ると、窓と言う窓に布を被せ、外から家の中が見えないようにする。ケイ自身はどうあれ、見た目は普通の少女なのだ。視察隊の目に留まるのは出来るだけ避けたい。

「タオ、お部屋の中、真っ暗よ」

「ケイ」

 俺はケイの腕を掴んで目線を合わせる。

「俺が良いって言うまで家から出るなよ」

「どーして?」

「危ないから」

 詳しい事を説明したところでケイには理解できないだろう。ケイはしきりに首を捻っていたが、黙って頷いた。

 

 視察隊は数日、ここに滞留した後、次のオアシスに行くらしい。それほど長く居座らないことに安堵しつつ、俺は目をつけられたりしないように注意を払っていた。ケイには何度も何度もしつこいくらいに外に出ないように言い、――ケイのことだからそうしなければ、俺の言う事など直ぐに忘れて外を出歩いてしまう。俺自身も視察隊と顔を合わせないように極力時間帯を見計らって行動していた。

 そう、俺は細心の注意を払っていたのだ。それでも時に運命の悪戯というのが起こるものだと俺は知ることとなった。

 

 視察隊がいようがいまいが、やるべきことに変わりがあるわけではない。日差しの強い時間帯を避けて俺は自分とケイ、じいさんが生きていくための必要な物を得るために働かなくてはならない。でなければ、三人揃って砂漠のミイラになってしまう。

 視察隊が到着して三日経った。奴らは今のところは問題を起こすことなく大人しくしていた。俺はいつもと同じように日が昇る前に起き出し、砂漠にカサブトカゲを捕まえに出かけた。昼間は焼ける日差しが照らす砂漠にも、生き物はちゃんといるのだ。カサブトカゲは薬の原料となるので高値で売れる。もちろん、そう簡単に捕まえられるものではないが。生憎、今日は目星をつけて置いた場所の当てが外れて、姿を見かけることすら出来なかった。

 だからと言って手ぶらで帰るわけにも行かず、俺はオアシスに戻ると水を(かめ)に汲んではそれを売り歩いた。そんなに大した額にはならないが小額でも稼ぎには違いない。

 俺が僅かな稼ぎを手に家に戻ったのは、太陽がもっとも強い時間が過ぎ、傾き始めた頃だった。

 本当はもっと早く帰りたかったのだが、カサブトカゲの当てが外れたせいで予定より遅くなってしまった。

「あっ?」

 俺は思わず足を止めた。いくら日が翳り始めているからといって、太陽はまだ空に高い。天からは熱気が降り注ぎ、肌に汗を浮かび上がらせる。余程の愚か者か、事情のあるものでなければ、率先して外に出ようとは思わないだろう。それなのに、今日に限って通りには人が溢れていた。嫌な予感がした。この先には俺たちの家がある。

 胸の内に急激に膨れ上がった不安が足を速める。一分でも一秒でも早く、ケイとじいさんの姿を確認したくて。

「タオくんっ!」

「……チョウさん」

 こちらに向かって走って来ていた、チョウさんが俺の姿を認めて声を上げた。チョウさんの様子は尋常ではない。

「ケイちゃんが」

 それ以上、説明はいらなかった。人波を掻き分け、俺は走った。こんな灼熱の日差しの中を全力疾走することほど愚かなことはないが、そんなことを考える余裕なんてなかった。

 早まる心拍数。荒くなる呼吸。乾燥した空気が喉を焼きヒリヒリと痛んだ。

 それでも、一瞬たりとも足を休めることはない。俺は滑り込むように家の前の通りへと入った。その目に映ったのは――。

「ケイっ!」

 俺は乱れた息の合間から、声を張り上げた。

 そこにはケイがいた。が、ケイだけではなかった。鮮やかな色の服で肥えた身を隠し、首や腕を装飾品で飾った三人の男――視察隊の人間。

 ケイは、その中の一人に腕を掴まれ、振り解こうと必死でもがいていた。男たちはそんなケイを嘲笑うかのように眺めている。ケイの足元には、砕けたカップと飛び散った水の跡。そして、崩された砂山。砂に埋もれてしまったのか、あの新緑の色はどこにも見当たらない。ケイが自分で崩すとは思えないから、男の内の誰かの仕業だろう。

 あれほど、家から出るなと言ったのに。芽に水をやろうとしたケイは運悪く、ちょうど通りかかった視察隊に目撃されてしまったようだった。見た目だけならケイは可愛らしい少女だ。視察隊が見逃すはずはない。

 ケイは何かを叫んでいた。助けを求めているようにも聞こえなくないが、正しい言葉になっていない。一方、オアシスの人間は遠目から眺めているだけで、ケイを助けようという素振りさえ見せていなかった。

 俺はといえば、当然、他の連中と同じように傍観――できるはずがない。躊躇うことなく俺はケイの腕を掴んでいた男に飛び掛った。

「タ、オぉ」

 震える声。男から手を放され、勢いでケイは後ろに倒れこむ。砂で汚れた顔は涙で滲んでいた。俺はすぐさま、ケイに駆け寄ろうとした。が、腹部に衝撃。俺は地面に倒れこんだ。鈍い痛みが腹から全身へと伝わり、圧迫感に耐えかねて、俺は激しく咳き込んだ。

 埃っぽい砂が呼吸と共に口の中に侵入し、じゃらり、とした食感が舌を撫でる。

 腹を蹴られたのだと頭の隅で理解する。

「タオっ!」

 悲鳴混じりの声を上げて、ケイが俺に縋りつくが、視察隊の男がケイの腕を掴み、自分たちの方に引き寄せる。遠巻きに眺める人垣がざわめくが、それだけだ。

「……ケ、イを放せ」

 俺は震える膝を叱咤し、両手で身体を支えながら立ち上がる。

「生意気なガキだな。俺たちが誰だか分かって……」

「ケイを放せ!」

 俺は男の言葉を最後まで待たず、飛び掛る。俺が再度、飛び掛ってくると思っていなかったのだろう。男は間抜けな悲鳴を上げて、地面に倒れこむ。

「このガキ!」

 髪を背後から掴まれ、頭皮に刺すような痛みが走る。背中を底の厚いブーツで蹴られ、顔を殴られ、それでも俺は地面に倒れた男にしがみついたままだ。だが、三対一の上、体格的にも俺は奴らに負けている。

 男から引き剥がされた俺は地面に転がされた。俺に抵抗するすべはなかった。あとは、奴らの気が済むまで殴られ蹴られ。頭に強い衝撃を受けた直後、俺の意識は途絶えた。

 

 生暖かいものが頬に落ちてくる。すがりつくように響く悲鳴が幾度も、幾度も、鼓膜に反射して。繰り返し流れては消えていく。

 

 俺は瞼を震わせ、ゆっくりと光を視界に取り込んだ。上手く開かない瞼。腫れているのだろうか。ズキズキと痛む。顔だけでなく全身が鈍痛に(さいな)まれている。腹部には強い圧迫感があった。

 俺は一瞬、自分の置かれている状況が理解できなかった。どうして全身が痛んでいるのか理解できない。やがて、時間と共に気を失う前の出来事を思い出した俺は慌てて身体を起こした。急な動きに全身が悲鳴をあげ、思わず呻き声を漏らすが、そんなことを気にしている場合ではない。

 ケイは、ケイはどうした。ケイは連れて行かれてしまったのか。

「……ケ、イ」

 慌てふためいた俺の視界に飛び込んできたのは、俺の腹を枕にして眠るケイの横顔だった。俺はじいさんがいつも寝ている寝台に横にされていた。ケイは寝台の横の椅子に腰を掛けたまま、上半身を俺の腹部に倒して眠っていた。感じていた圧迫感の正体はこれだったのだろう。見る限りではケイが乱暴された様子は無い。俺は安堵の息を吐いた。

 覗き見たケイの頬は涙で汚れている。俺は痛む腕を無視してケイの髪に触れた。フードが外されて露わになった金髪。手に伝わる感触は幻ではない。俺は暫くの間、ケイの髪を撫で続けていた。

 

 俺が寝台から起き上がれるようになったのはそれから三日経ってからだった。幸いにも腕の骨折と打撲だけで、致命傷となるような怪我は負っていなかったが、暫くの安静が必要だと医者に言われた。その間の生活をチョウさんが援助してくれることにならなければ、それこそ、砂漠のミイラと成り果てるところだった。俺が寝込んだことで、じいさんがなぜかやる気を出して、曲がった腰を抱えてチョウさんの仕事を手伝い始めた。おかげで、生活の心配をせずに、俺は治療に専念する事が出来た。

 ケイが奴らに連れて行かれなかったのは幸い中の幸いだった。俺を散々痛めつけて満足したのと、次のオアシスへの出発時間が迫っていたので、奴らは俺が気を失ったあと、このオアシスを出て行ったそうだ。

 

 その日の夕暮れ。

「タオ、見て!」

 ケイは寝台で上半身を起こしていた俺のところに来ると、俺の腕を掴み、外へと誘った。正直、動くのもだるかったのだが、ケイは強引に俺を引っ張っていく。俺は仕方なく、痛む身体を引きずって家の外に出た。

「タオ、ほらぁ」

 満面の笑顔が示したものは――。

「これって……」

 小さな砂山。視察隊の男の足に踏みにじられたはずのそれは、あの後、ケイが再び直したのだろう。その砂山の頂上に天に向かって葉を伸ばす小さな命。

 てっきり、枯れてしまったかと思っていたのに、それは再び根付き、必死で生き延びようとしていた。俺はそれに言い様のない感動を覚えた。

「はな、咲くかなぁ」

 窺うように芽を見つめるケイに俺は、

「咲くさ。だって、ケイの種だろう?」

「……うん!」

 俺とケイは暫くの間、そうして芽を見続けていた。

 

 小さな芽のように、俺たちも必死で生きている。このどこまでも続く乾いた砂漠で。小さな命を生かすために。

 

 

 

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