*ペイン −音−


 町中の雑踏。
 人が行き交う大通り。休日ともなれば、多くの人々が駅の出口から吐き出されて、まるで定められていたことのようにスクランブル交差点へと流れ込む。
 その流れに逆らうことなく従って、前に歩く人に続いて横断歩道に足を踏み入れる。
 ざわめきが鼓膜に反射する。携帯を片手に大声を出す人。連れ立って歩きながら、意味のないお喋りに精を出す人。信号待ちのバイクが低く唸るような雄叫びをあげる。
 わっ、と泣き声があがったのと、コップを割ってしまったときのような高い音が響いたのはどちらが早かったのか。
 その音に誘われるように視線を動かせば、まだ幼い子供がアスファルトの上に腹ばいになって倒れていた。
 どうやら、転んだらしい。すぐに、母親らしき女性が駆け寄り、抱き起こす。子供の膝からは赤い血が染み出していた。
 コップを割ったような音が断続的に鼓膜に響く。
 それは耳鳴りのようで、俺は無意識に耳に手を当てた。足を止めた俺を迷惑そうに睨みながらも、何も言うことなく通り過ぎていく人。転んで泣き叫ぶ子供に、道行く人々はほんの一瞬だけ目を向けるだけ。
 チカチカと点滅する信号。交差点を渡る人たちの歩みが速くなる。
 泣き叫ぶ我が子を抱いた母親が慌てて交差点を駆けて行く。耳鳴りが遠ざかっていく。
 急ぎゆく人波に乗って、俺もまた赤信号へと変わりつつある交差点を渡り始めた。

 大通りを一本裏に入ると大きな駐車場がある。その脇を抜ければ正面玄関へと辿り着く。
 この辺りでは一番大きな病院。俺は玄関前で一度足を止める。が、覚悟を決めて一歩踏み出す。
 機械音と共に開かれる自動ドア。俺は受付を目指して歩き出す。
 風のうねりに似た音が鼓膜を打つ。黒板を引っかくような音が脳裏に木霊する。
 耳の中に飛び込んでくるありとあらゆる音が、今日も病院という箱の中で苦しむ患者がいることを告げていた。
「あら、芦田(あしだ)くん。今日もお見舞い?」
「……はい」
 すっかり顔馴染みになっている看護師さんが声を掛けてくる。現実の音に触れると、脳みそに響く音が多少は遠ざかる気がした。
「いつも、偉いわね」
 看護師さんが感心したように言う。
 いつものように受付を済ますと、俺は病室に向かう。見舞いの花束の変わりに、肩から提げる鞄には教科書とノート一式。
 もう幾度、往復したか知れない廊下を迷いなく進む。そうして辿り着いた個室の病室。
 病室のドアの横につけられたプレートには「榊(さかき)美鈴(みすず)」と書かれている。俺はノックをして来訪を告げるが。
「…………?」
 いつもならば、すぐに返って来るはずの返事がない。訝みながらも、再度、ノックをするが結果は同じだ。音は、聴こえない。
 嫌な想像が脳裏を駆けた。俺は病室の扉を開けて中に入る。
 風が頬を打つ。開け放してある窓辺で白いカーテンが波を作っていた。その前にある白いベッド。普段はきちんと整えられているというのに、今日に限って乱れたままの布団は、この病室の主が慌てて飛び起きたことを意味していて。
「わっ!」
「うわっ!?」
 声と共に背中に衝撃。俺は驚いて、肩をびくりと震わせた。
 そんな俺の様子が想像通りだったのだろう。振り返れば、満面の笑みを浮かべる顔。
「美鈴、お前なぁ……」
「あはははは」
 明るい笑い声が室内に響く。俺は文句を言うタイミングを逃がして、息をつくだけに留まった。
「……寝てなきゃ駄目だろう」
「だって、あきちゃんが来るのが見えたから」
 窓を示して言う。この病室の窓から、玄関前が一望できる。大通りから駐車場を抜けてくる様子がはっきりとわかるのだ。駅前の高いビルの群れも、並木道の向こう側の川も、四階のこの病室からははっきりと見渡せる。



 榊美鈴と俺「芦田(あしだ)輝(あきら)」は幼馴染である。
 家は斜向かいで、俺たちが生まれる前から親同士に交流があり、幼稚園から高校まで、ずっと一緒だった。
 美鈴は昔から身体が弱く、ちょっと無理するとすぐに寝込んだ。その度、俺が学校からの配布物を届けたり、今日やった授業の内容を教えてやったりしていた。俺の小学校の記憶のほとんどは美鈴で占められているように思える。
 もちろん、友達と遊ぶのも楽しかったが、それ以上に美鈴のことが大事だったから、友達になんていわれても、美鈴のところに行くことは止めなかった。
 年の差は僅か数ヶ月だったけど、兄弟のいない俺にとって美鈴は実の妹にも等しかった。
 そんな俺も美鈴も今では十六歳。付き合いも十六年目。友達は、俺と美鈴が付き合っているんじゃないかというけれど、生憎、そんな事実はなく。妹のようで妹ではなくて、ただの友人というのもおかしな感じで、だけど近すぎて恋人にとは思えない。それが、俺と美鈴の今の関係だ。



「アイスが食べたい」
 毎週末の恒例となっている二人だけの勉強会。ベッドの上の取り外し可能な机の上に教科書とノートを広げて、この一週間、学校で習ったことを美鈴に教える。
 勉強が一段落したところで、美鈴が一言。
 俺は溜息を吐きながら、教科書を閉じる。
「夕飯が食べられなくなるぞ」
「大丈夫。甘いものは別腹だから」
 だから、アイスを買ってきて、と美鈴は言う。俺は再度、溜息をついたが、不意に響いた鈴の音。
 ちりん、ちりん、と響く凛とした音色に俺は、はっとして美鈴を見る。見る限りでは美鈴に変わった様子はないが、それが当てにならないことを俺は知っていた。
「榊さん、お薬の時間です」
 ノックと共に開かれた扉から入って来た看護師さん。
 ちりん、と響く鈴の音がさらに大きくなった気がした。
「具合はどうですか?」
「絶好調です」
 問われて答える美鈴。俺は呆れたような口調で、
「嘘付け、薬切れてちょっと苦しいんだろ」
「そんなことないよ」
「いや、ある」
「なんで、あきちゃんにわかるのよ」
「……そりゃあ、お前が無理しているときは眉間に皺が寄るから」
 咄嗟に口から出たでまかせだったが、美鈴は黙り込んだ。思い当たる節でもあったのだろうか。どちらにせよ、美鈴の態度から、やはり薬が切れかけていたのだと分かる。
「兎に角、薬を飲みましょうね」
 俺と美鈴のやり取りを微笑ましげに眺めていた看護師さんが、薬を差し出す。美鈴は黙ってそれを受け取ると口に含み、水と共に嚥下した。
「それにしても、芦田くんは、榊さんの具合が悪いのをいつも見抜くわよね」
 看護師さんが不思議そうに首を傾げながら言う。以前、仮退院ができるかもしれないと言う話になったとき、家に戻りたかった美鈴は具合が悪いのを隠そうとした。それを見抜いたのは俺だった。そのことも含めて、看護師さんは言っているのだろう。
「伊達に物心つく前から一緒にはいませんよ。美鈴がアイスを食べたいというので、ちょっと行ってきます」
「あきちゃん、チョコアイスだからね」
 わかってる、と答えながら俺は財布を持って病室を後にした。ちりん、と響く鈴の音が扉の向こうに遠ざかった。



 俺は痛みを音で知ることができる。痛みは音として俺の鼓膜を打ち、脳に響かせる。
 その音は発信源である人間によって様々だ。美鈴のは、その名が示す通りの美しい鈴の音色として俺には聞こえる。

 それが最初に聞こえ出したのは今から三年前――中学一年のときだ。
 美鈴は中学に上がったのをきっかけに吹奏楽部に入った。小学生の頃よりも体調を崩す回数も減り、休むことなく学校に通えるようになったからだ。両親の心配も余所に美鈴は友達と部活に精を出していた。
 俺は友人に誘われて、バスケ部に入った。練習は厳しかったが、俺もそれなりに楽しくやっていられた。それまで、美鈴といた時間は先輩や同級生と過ごす時間へと変わっていった。
 幼少期共に過ごした男女が、思春期を迎えて離れていくように、俺と美鈴もまた別の道を歩んでいく。そのはずだった。
 その日は、どんよりとした灰色の雲が空を覆っていた。俺は学校の外周を走っていた。
 今夜は雨だと朝見た天気予報が言っていたが、どうやら当りらしい。湿った空気が喉の奥に纏わりつき、俺は額の汗を手の甲で拭いつつ、ほんの少しペースを速めた。

 ちりん、と。

 鈴の音が聞こえた。
 まるで、耳のすぐ横で響いたかのように、それははっきりと俺の鼓膜を打った。俺は足を止めた。
「おい、どうした?」
 俺のすぐ隣を走っていた友達が、訝みながら振り返る。
「今……いや、なんでもない」
 なんだよ、と友達が言うのに再度、なんでもないと告げて俺は再び足を動かし始めた。
 単なる気のせいだ。鈴の音は一度きり。俺はそう思い込んだ。
 救急車の音が聴こえて来たのは、外周を走り終わって一息ついていたときだった。サイレンの音は徐々に近付いてくる。
「うちの学校じゃん?」
「えっ、まじ?」
 サイレンは学校の敷地内に入ってきた。一体、なにごとかと集まってくる生徒たち。
「誰か倒れたらしいよ」
 俺の隣にいた女子生徒がそんな話をしていた。見慣れた校舎を背景に赤く光るライト。
 ちりん、と鳴る鈴の音。俺ははっとして周囲を見渡した。
「どいて! どいて!」
 人垣を押しのけるように響く声。それに導かれて、俺は再び視線を前に戻した。担架に乗せて運ばれてくる人。その人物の姿を目に入れた瞬間、俺の心臓は跳ね上がった。
「美鈴っ!?」
 担架の上、毛布を掛けられ、ぐったりとしている制服姿の少女――顔を青白くした美鈴が救急車の中へと運ばれていく。
 俺は目の前に立っていた生徒を押しのけ、美鈴に近付いて行った。
「美鈴っ! おい、美鈴っ!」
 俺の声に、美鈴は反応を返さない。血が音を立てて下っていくのが分かった。ここ最近はずっと調子が良かったはずなのに。昔のように具合が悪くなることなんてなかったのに。

 ちりん、と。また鈴の音が――。

 俺はそのまま、美鈴と一緒に救急車に乗り込んだ。

 無理をしていたのだろう。美鈴は学校生活を楽しんでいた。
 小学生のときにできなかった分を取り戻そうとするように、がむしゃらにやっていた。周りに必死について行こうと無理を重ねた結果、美鈴の身体は限界に達してしまったのだ。
 自覚がなかったはずはない。美鈴自身、身体の変調を自覚していたはずだ。
 だけど、周りに迷惑をかけたくなくって、それ以上に学校に行けなくなることを恐れて、美鈴は具合が悪いのを押し殺していた。
 どうして、気付いてやれなかったのか。昔から、美鈴の家族を除いて誰よりも近くにいたのに。美鈴の性格だって知っていたのに。
 病院に担ぎ込まれた美鈴。窓の外、降り始めた雨。
 それを見つめながら、苦い後悔が俺の胸の中で渦巻いていた。

 それから、美鈴は入退院を繰り返すようになった。学校に通える日数も減った。当然、部活に参加できるはずもなく、美鈴は部活を辞めざるを得なかった。
 俺もまた部活を辞めた。先輩も友人も、引き止めてはくれたけど、俺の決意は固かった。
 何より今は、美鈴の傍にいたかった。小学生のときのように、俺は週末になると美鈴のもとへと行き、勉強を教えた。
 ちりん、と響く鈴の音。それが決まって美鈴が苦しんでいるときに響いてくることに俺は気がついた。美鈴だけではない。俺の傍にいる誰かが怪我をしたりすると、決まって音が聴こえる。その音は俺にしか聴こえていないようだった。
 音は痛みに、痛みは音に。それは、音(ペイン)。
 週末の勉強会が功を奏してか、美鈴は俺と同じ高校に入学することができた。だが、美鈴は入学式後に体調を崩し入院、すぐに休学扱いとなった。



 音が脳裏に響く。白い廊下。並ぶ病室からは様々な音が聴こえてくる。
 病院は痛みに溢れている。痛みを音として感じる俺には耐え難い環境だ。だけど、この音のおかげで、俺は誰よりも早く美鈴の痛みを察することができるようになった。
 院内の売店につくと、美鈴が好きなチョコアイスと、飲み物を買う。
「ほら、買ってきたぞ」
 真っ直ぐ病室に戻った俺は、ノックもそこそこに扉を開けた。すると、
「あっ……」
「あら、輝くん。こんにちは」
 ベッドに上半身を起こして座っている美鈴。その脇の椅子に腰を降ろしていたのは美鈴の母親だった。
「こんにちは」
 俺はぺこりと頭を下げて挨拶する。
「あきちゃん、アイスは?」
「ほれ」
 俺はビニール袋を美鈴に渡す。美鈴はアイスを取り出すと早速、開けて中を取り出した。
 俺は、一緒に買ってきた飲み物を出し、口に含んだ。美鈴の方を見やるが、鈴の音は聞こえない。薬が効いているのだろう。
「いつも、悪いわね。美鈴もちゃんと輝くんにお礼を言うのよ」
「はりはほう(ありがとう)」
 アイスを頬張りながら、美鈴が言えば、おばさんは呆れたように目を瞬かせた。
「榊さん」
 控えめなノックの後、看護師さんが顔を覗かせる。
「ちょっと、お話が……」
 躊躇いがちに口を開いた看護師さんの視線が俺を捉えたことに気がついて、俺は素早く机の上の教科書とノートを片付けた。
「今日は帰るな」
「もう?」
「あぁ」
 いつも見舞いに来ているからといって、俺が部外者であることには変わりない。患者のプライバシーに関わることは聞かせるわけにはいかないのだろう。俺は気を遣って帰ることにした。
「また、来週な」
 俺は病室を出た。



 翌週末。
 俺はいつものように教科書とノートを詰めた鞄を持って病室を訪れた。頭に響く音をやり過ごし、足早に慣れた廊下を進む。
 ノックをすれば、「どうぞ」と返って来る声。先週のように隠れているということはないらしい。俺は扉を開けて中に入った。
「あきちゃん、おはよ」
「おはようって言う時間じゃないけどな」
「そうだね」
 ふっふふ、と美鈴は笑う。美鈴は上機嫌だった。なにか良いことがあったのだろうか。
 少なくとも、音は聴こえていないから、具合が悪いと言うことはない。
「じゃあ、今日は先週の続きの数学からで」
「あきちゃん」
 教科書を取り出しかけた俺を美鈴が制した。柔らかい笑みが顔に浮かぶ。
「あたしね、来週から仮退院することになったの」
「仮退院っ!?」
 最近はかなり調子が良いことは分かっていたが。先週、看護師さんが話そうとしていたのはこのことだったのか。
「暫く、家で様子見ようって。上手く行けば、学校にも復帰できるし」
 美鈴は心底、嬉しそうだった。また学校に通えるとなれば嬉しいに決まっている。
 だけど、俺の胸には不安が巣食っていた。中学のときのように、また倒れることにでもなったら。
 そんな俺の心中などお見通しなのか、
「大丈夫。今度は無理したりしないから」
「…………」
「あきちゃんったら、心配しすぎ」
 そう言って美鈴は笑った。



 予定通り、美鈴は仮退院し、自宅で過ごすこととなった。美鈴の家は俺の家の斜向かい。
 俺は美鈴が退院したその日から、学校が終わると美鈴の家に行くのが日課となった。
「そしたら、鹿島がさ」
「あはは、それじゃあ、そうだよね」
「あいつも馬鹿だよなぁ」
 俺の話に美鈴は楽しそうに笑った。美鈴は学校での話を聞きたがり、俺は今日あったことを美鈴に話す。
「いいなぁ。あたしも早く学校に戻りたいな」
「戻っても、勉強ができなくって毎日、居残り勉強だったりしてな」
「あきちゃん、ひどーい。そんなことないもん」
 たくさんのぬいぐるみが置かれた美鈴の部屋。小さな机を挟んで、勉強しながら話しに興じる俺たち。
 穏やかに笑う美鈴を見ていると自然と俺の頬まで緩む。こうしていると、まるで恋人同士みたいで――。
「あきちゃん、どうしたの? 顔真っ赤だよ」
「いや、なんでもない」
 変なの、と美鈴が笑う。その笑顔を直視できず、俺は手元の教科書に視線を降ろした。
 美鈴は幼馴染で妹のようなもの。それ以外でもそれ以上でもないはずで。変に意識する方がおかしいと俺は自分自身に言い聞かせた。

「美鈴、入るぞ」
 学校が終わって、その日も俺は美鈴の家を訪ねていた。おばさんに挨拶したあと、二階の美鈴の部屋の扉に声をかけた。すると、
「えっ?」
 聴こえて来たのは、美鈴の元気な声ではなく――、ちりん、ちりんと響く鈴の音。
 ここ暫く聴いていなかった音だった。
「美鈴」
 俺は勢い良く、扉を開けた。美鈴は机に突っ伏して寝ていた。俺を待っている間、自分で勉強しようとしたのだろう。テキストが机の上に広がっている。俺は、美鈴に近付いた。
「美鈴……おい、美鈴」
 細い肩を揺さぶる。冗談だろう。まさか、そんな……。ぴくり、と動く腕。閉じられていた瞼がゆっくりと開く。
「あれ? あきちゃん……来てたの?」
「来てたのって」
「ごめん、ごめん。寝ちゃったみたい」
 寝ぼけ眼で俺を見上げて、美鈴はそう言って笑うが、脳裏に響く音。音が聴こえる。美鈴の痛みが聴こえる。
「お前、また無理して」
「無理なんかしてないよ。昨日、遅くまで漫画を読んでたから、ついウトウトと」
「そういうことじゃない」
 音が聴こえるのだ。ちりん、ちりんと音(ペイン)が。
「病院に、病院に行かないと」
 また倒れるようなことになったら。俺は、一先ず、おばさんに伝えようと部屋を出ようとしたが、
「余計なこと言わないでよ」
 背中を追いかけてくる声。俺は振り返った。
「あたしは大丈夫だって言ってるでしょ。折角、仮退院ができて、学校に戻れるかもしれないっていうのに。変なこと言わないでよ」
 美鈴は知らない。俺が痛みを音で知ることができるということを。そんなことを言っても変な目で見られるだけなのはわかっているから、俺は誰にも話していない。
 だけど、確かに俺には痛みが聴こえるのだ。
「でも、美鈴。お前は……」
「あきちゃんは心配しすぎ。あたしのことは、あたし自身が良く分かってる。余計なこと言わないで」
「俺は、お前のことを心配して」
「心配してくれなんて、頼んでない!」
 突き放すように言われて、俺は喉の奥を引き攣らせた。
「あきちゃんはあたしに構いすぎ。はっきりって迷惑よ」
 こんなこと、今までに一度たりとも言われたことはなかった。確かに、美鈴に勉強を教え始めたのも、毎週のように見舞いにいくのも俺が勝手に始めたこと。いつの間にか、当たり前なことになっていたけど、それが知らない間に美鈴の重荷になっていたのだろうか。
「……じゃあ、勝手にしろ」
 ようやく、吐き出せたのはその言葉だけ。俺は逃げるようにして美鈴の部屋を出た。
 玄関先で、おばさんが何か言ったような気もしたが、俺の耳には届かなかった。言い表せないようなグチャグチャになった思いが俺の仲で重く渦巻いていた。

 俺は美鈴の家に行かなくなった。出てきてしまった手前、行きづらくなってしまった。毎日通っていたのに、突然行くのを辞めた俺に母親が「美鈴ちゃんと喧嘩したの?」と尋ねてきたが、俺は答えなかった。
 喧嘩なのだろうか。美鈴と喧嘩した記憶はない。いつだって、俺は美鈴を気遣ってきた。今までの俺はずっと美鈴が中心だった。
 だからか。知らない間に俺の美鈴に対する思いは美鈴を縛っていたのか。考えれば考えるほど、わけがわからなくなっていった。
「芦田、今日、暇? カラオケいかねぇ」
「……行く」
 迷ったのは一瞬、俺は友人の誘いに乗ることにした。美鈴から少し離れてみる良い機会なのかもしれない。俺の放課後は友人との遊びに占められるようになっていった。

 携帯が鳴る。今流行の音楽が着信を告げる。
「芦田、鳴ってるぞ」
「あぁ」
 携帯画面を見れば、自宅から。どうせ、帰りに何か買って来いとか言うつもりだろう。
 俺は意図的にその着信を無視した。だが、それは数分置きにしつこく鳴る。
 俺は仕方なく出た。
「なに?」
「輝、大変よ。美鈴ちゃんが――」
「えっ?」
 どくん、と心臓が鼓動を打った。俺の頭の中は真っ白になった。



 美鈴が倒れて、病院に運ばれた。
 どこをどう走って病院まで辿り着いたのか記憶にない。
 気がつけば息を切らしながら、俺は病院に駆け込んでいた。途端に響く様々な音。それを無視して俺は廊下を進む。
「おばさん!」
「……輝くん」
「美鈴は?」
 おばさんの顔は青白く、今にも倒れそうだった。俺は肩で大きく息をする。
 おばさんは、無言で俺を案内した。扉の奥の部屋。ガラスが部屋と廊下を遮っている。

 ちりん、ちりん、ちりん、ちりん。

 耳鳴りのように断続的に響く音色。俺は息を飲んだ。美鈴がいた。ガラスの向こう側。白いベッドの上。幾つものチューブに繋がれた細い身体。生気が薄れた顔。
「……美鈴」
 脳に響く鈴の音が、美鈴が苦しみながらも、まだ生きていることを知らせていた。
 どうして、あのとき、美鈴の母親に言わなかったのだろうか。
 美鈴は学校に通うために、また無理をしていた。身体が痛みを訴えても、必死でそれを隠していた。そして、倒れた。
「……なんで」
 あれほど、無理をするなって言ったのに。どうして、俺は傍を離れてしまったのだろう。どうして、無理やりにでも病院に連れて行かなかったのだろう。後悔が押し寄せてくる。
「輝くん」
 おばさんが、俺の肩に手をかけた。
「美鈴は、貴方のことを気に掛けてたのよ。酷いこと言ったって。だから、来てくれなくなってしまったんだって。昔から、輝くんには世話になりっぱなしで。自分は重荷なんじゃないかって、あの子、気にしてたのよ。だから、早く良くなって、一緒に学校に通って輝くんに恩返しするんだって……」
 耳が痛くなるほど響く鈴の音。最後まで話せず、おばさんは顔を両手で覆って泣き出す。俺は唇を噛み締めた。
 重荷だなんて思ったことなんて一度もない。俺はただ、美鈴が喜ぶ顔が見たくって。振り返りガラスの向こう側の美鈴を見る。
 まるで寝ているみたいで、何事もなく起き出せば良い。俺はそう思った。
 ガラスの向こう。俺はそこに立ち尽くして美鈴を見つめる。拳が震え、噛み締めた唇が痛い。どうか、どうか、と祈りながら、俺にできるのは音(ペイン)を聴き続けることだけ。美鈴になにもしてやれない。無力な自分が悔しくて。

 どれほどそこに立っていたのか。ぴくり、と美鈴の指先が動いたのを俺は見逃さなかった。俺はガラスに両手をついた。
「美鈴……おい、美鈴」
「榊さん、聴こえますが?」
 俺の声に中にいた看護師さんも気付いたらしく、美鈴に声を掛ける。
「美鈴!」
 呼び声が届いたのだと信じたい。薄らと、美鈴の瞼が開いた。それは俺を捉える。
 薄い唇が動いて言葉を紡ぐ。「あきちゃん」とそれが形作るのを俺は見た。
 ふんわりと、笑みが零れた。俺をみて美鈴は微笑んだ。そして――。
 瞼は再び閉じられた。途端に響く電子音。
 それが何を示すのか知らないほど、俺は幼くなく。頭が痛くなるほどの鈴の音が木霊する。
 ガラスの向こう側が騒がしくなる。どれが現実の音なのか曖昧になる。喧しく鳴り響く鈴の音色が俺から思考を奪っていくようで。
 それは、唐突に訪れた。全ての音が掻き消えたようだった。俺の頭の中で響いていたそれが消え失せた。僅かな余韻さえ残さずに。
 ガラスの向こう側では、先生や看護師が慌しく動いている。俺は、崩れ落ちるように、その場に膝をついた。



 涼やかな風が病室に吹き込む。俺は窓の向こうの景色に視線を投げ出した。
 ほんの少し前まで、美鈴が病室として使っていた個室。
 白い清潔なシーツが引かれたベッド。カーテンが波を描く。窓からは様々なものが見渡せる。美鈴はいつも、ここから外の景色を見ていたのだろうか。毎週毎週、俺が通ってくるのも見ていたのだろうか。今となっては、それを聞くこともできないが。
 あれから、音が聴こえなくなった。目の前で怪我をした人がいても、何も聴こえなくなった。音(ペイン)は美鈴とともに消えてしまった。
 俺の真ん中。ぽっかりと空いた穴。音の代わりに得た新しい痛み。
 好きだったのだと、今更ながらに思う。美鈴に頼られるのが嬉しかった。美鈴が笑ってくれるのが嬉しかった。
 幼馴染という単語の影に隠れて、俺はずっと見知らぬふりをしていたのかもしれない。だとしても、もう全て手遅れで。
 いつだって、俺は間に合わない。「もっと早く」、「あのとき」、そうやって後悔する。
 言いたいことはたくさんあったはずなのに、それを告げることはもうできなくって。今更、自覚したってどうしようもないのに。
 風が俺の髪を揺らす。この病室もすぐに別の患者が入るのだろう。美鈴の痕跡は跡形もなく消えて。彼女がいたということすら忘れて。
 俺は窓へと近付く。地上四階の高さ。下はコンクリート。俺は小さく息をついた。
 死んだ人間は天へと昇ると言う。
 地上に肉体を残して、空に飛び立つのだろう。なら、ここから飛び降りれば、心は天に昇れるのだろうか。俺はぼんやりと空を見やる。

 そして――。窓枠に手を掛けた。




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