*Lazy
目が覚めたら、すべて消えてしまえば良い。
ヒトカケラも残さず。
人は欠片も存在することなく。
すべて消えてしまえば良い。
ヒトカケラも残さずに。
すべて終わってしまえば良い。
この記憶も想いもすべて。
重役出勤と言うのは気持ちの良いものだ。みんなが眠たい目をこすって動いている頃に、まだ夢の中にいられる。もちろん、出勤時間を守ることが望ましいのだろうけど。私がまともな時間に出ることは稀だ。
朝昼兼用のコンビニのサンドイッチをかじりながら、私は人が行き交う大通りを歩いていく。
半袖のジーパンにクマのイラストが描かれたシャツ。その上から少し大きめの黒いロングコートを羽織り、背には赤いバッグ。
真っ白いスニーカーの底がアスファルトを叩いては跳ね上がる。鴉羽色の長い髪を覆うのは毛糸の帽子。大きなボンボンが二つ。耳の横に垂れている。
耳元で鳴り響く音楽はイヤホンからのもの。最近、注目を浴びてきたアーティストの曲を聞きながらの足取りは軽い。
サラリーマンが行き交う通りは冬空の下でもなんとなく暑苦しく感じる。特に理由はないんだけどね。
自宅マンションから電車に乗って二駅。乗り換えて五駅目。駅から歩いて十分。そこに私の職場がある。
大通りを外れ、幾つか角を曲がったところで私は足を止めた。小さな灰色のビル。その出入り口に人だかりが出来ている。訝みながらも私はそれに近づいていった。
「ちょっと、失礼しまーす」
普段はちっぽけな背丈が恨めしいがこういうときは便利だ。私は人垣をかき分け中を覗き込んだ。
二十四時間三百六十五日入り口の両脇に立っているはずの警備員のおっちゃんの姿がなかった。私ではあるまいし、重役出勤ってことはないだろう。
私はガラス張りの自動ドアの向こうに視線を投げかけた。
そこには見慣れた制服を着て立つ警備員のおっちゃんの姿が見えた。
「おや?」
仕事放棄かと思いきや、何やら様子がおかしい。ピリピリとした緊張感が漂っている。おっちゃんたちの視線のさき。ホールの真ん中に一人の男がいた。歳は三十から四十の間ってところ。
しわくちゃの作業ズボンに薄汚いシャツを着ている。男は何かを手にして喚いている。それがどうやらライターらしいことに私は気づいた。
おっちゃんたちが何かを言ってそれに対し男が叫んでいるが、イヤホンをした耳には軽快な音楽しか聞こえない。
私はそっと人垣を押しのけて自動ドアの内側に滑り込んだ。
曲はサビの部分。それに合わせて私はテンポよく足を進める。
「おはよーさん」
朝の挨拶は大事だ。もうすぐ正午だけど。
私は元気よく後ろ姿を見せるおっちゃんに声をかけた。
おっちゃんは一瞬、唖然として驚いた顔を浮かべる。その隙に私はおっちゃんの脇をすり抜けた。何やら喚いている男に向かって真っ直ぐに進む。
どんなに喚かれたってサビの強い音響がそれを遮る。
引き止めかけた警備員のおっちゃんの手をすり抜けて私は鼻歌を混じらせる。
すべて消えてしまえば良い
ヒトカケラも残さずに
すべて終わってしまえば良い
この記憶も想いもすべて
歌詞だけなら、なんて陳腐と思えるものだけど音がつくだけでこんなにも受ける感じが違う。
音楽とは素晴らしいものだ。
男がこちらを向いて叫んでいる。手にはライター。そして、前が開かれた上着の下には、腰に巻かれたソーセージの束。ではなく所謂、爆弾ってやつか。
なるほど、それでこんなに大騒ぎになっているのか。納得納得。
この爆弾男と交渉していたらしい男性の姿が男の体越しに見えた。
フロントの前に立ち、ピシッとスーツを決めている。神経質そうな眼差しを覆うのは細眼鏡。
男が叫ぶ。私は歩く。
悲鳴が曲を遮った。
接触は僅か一瞬。私は男の横を素通りし、快調な足取りでスーツ姿の男性に手を掲げてみせた。
「おはよー、高野隊長! 朝っぱらから不機嫌そうですね」
男性は一瞬、呆気にとられたような表情を浮かべた。しかめっ面以外の顔を見たのは久しぶりだ。
鼓膜に吹き込むメロディーは佳境。弱々しい音の羅列が耳に注がれる。
「隊長にお出迎えしていただけるとは光栄だなぁ」
「バカか?」
ぼそりと漏らされた一言。バカとはひどい。関西人にバカは禁句なのに。私は関西人じゃないけど。
わざとらしく、泣き伏してみたけど反応は冷ややかだ。のりが悪い。そんなんだから三十路前だって言うのに結婚はおろか、恋人だって出来ないのだ。
「なんか、言ったか?」
「いえ、何も言ってません」
読心術とはとんだエスパーだ。エスパーのハイパーだ。意味不明だけど。
「てめぇら、なにゴチャゴチャ言ってやがる!」
背後から叫び、首だけで振り返ってみれは、例の爆弾男。いやはや、すっかり忘れていた。
私は首をすくめて、
「ゴチャゴチャとは言ってない。見解の違いに物申してるんだ」
いつ見解の違いに物申していたかという質問は受け付けない。要は気分の問題だ、たぶん。
「うっせぇ! 状況が分かってんのか! 爆発すれば木っ端微塵何だぞ!」
「爆発ってなにが?」
「なにかだと? これがみえねぇのか!」
そう叫んで男が上着をめくり上げたが。
さっきまでそこにあったであろうソーセージ。もとい、爆薬の束。それが一本も残さずに消え失せていた。
私は悪戯の成功にガッツポーズを作ると、先程、すれ違った瞬間に男から奪い取ったそれを隊長の手の中に押し付けた。
「報告書は今日まででしたよね? 五時までに上がりますんで出かけちゃだめよい」
私は隊長の横を抜けてエレベーターを目指す。
いつの間にか、次の曲がイヤホンから流れ始めている。背後から爆弾男の叫びとざわめきが聞こえたが、それは私の鼻歌にかき消された。
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