*100回目の……

 

 

ふ、と誘われるように顔を上げた。

薄暗い室内。厚く閉ざされたカーテンの隙間から僅かに覗く朝日。淡く長い線を描いて、扉の前まで続いている。最後にカーテンの向こう側を見たときには空は暮れなずんでいたはずだから、随分と時間が流れてしまったようだ。

蜘蛛の巣が張った天蓋つきの寝台に、厚い埃を載せた鏡台。壁に飾られた絵画――記憶に確かなら、著名な画家に描かせたもののはずだ。床に敷き詰められた絨毯は埃で白く染まっている。見慣れた室内はなんら変わりない。

何度か瞬きをし、首を軽く振ったあと、床を走る光の線に目を落とす。きしり、と鳴る椅子。伸ばされた腕。指先が掴んだのはカーテンの裾。腕に日が当らないように注意しながら引く。日は細くなり、消えた。それから、扉の方に視線を向けて口元を吊り上げる。

「おや、これは珍しい」

呟きが室内に木霊したのと同時に私はそこから姿を消した。

 

◆◆◆◆◆

 

私はジェン・ニヴァル。このニヴァル城に居を構える齢幾千の吸血鬼だ。

吸血鬼とはご存知であるとは思うが、人間の生き血を糧として生きる高貴な存在だ。若い時分は近隣の人間どもを脅かし、夜な夜な人間の住処を訪れては若い娘や活きの良い若者の血を浴びるほど飲み漁っていた。しかし、あまりに派手な行いを繰り返したため、あるとき、城にやってきた一人の男の手によって灰へと朽ち果てさせられた。

吸血鬼とは不死の身。数十年の時をかけて蘇った私は人間に報復をした。私を灰に返した男の血族を滅ぼし、男を褒め称えた村町の人間を食い殺した。そうして、再び、私が享楽的生活を始めると、今度は領主の兵によって灰に戻された。そんなことが幾度か繰り返され、やがて、蘇ったと噂が流れるだけで討伐隊が姿を現すようになった。

何度炎に焼かれようとも、何度杭で心臓を突かれようとも、何度日に照らされ溶け消えようとも、何度灰と化そうとも時を経てば必ず蘇るこの身。

我が身を灰に返す人間に恨み憎しみを抱いていたのは最初だけだった。やがて、滅ぼされる事が当たり前となってくると私は城の外に出なくなった。若い頃は常に腹をすかせるような有様だったが、歳をとってくるとそれほど食欲を感じなくなってきたためでもある。

しかしながら、私の存在は多くの人間の記憶と書物に残されていて、名声を上げたいものたちが頻繁に城までやってきた。

数える事、九十九回。私は灰になり、大地に散った。そして、数十年前に三桁を目前とする復活を果たしたのだ。

 

 

まだ夜の気を残す風が埃を舞い上がらせる。開け放たれた外へと続く重たい扉。淡い朝日が玄関口を照らし、ホールまで光を届かせている。

軽快な足音ともに、眩いばかりの光を背に一人の少年が中へと入ってきた。歳は十代半頃から後半、二十歳過ぎと言う事はないだろう。

思わず訝んだ。こんなに若い人間が、この地に自らやってくるとは例にないことだったからだ。そもそも、人間が尋ねてくる事自体がまれなのだから。

私は暫し、考え込んだ。思いのほか若い人間ではあったが、別に年若かろうが、老いていようがなんら問題はない。

私は光を避けるように、深い影の中を移動しながら様子を伺う。まだ歳若い少年は(せわ)しなく左右を見渡しては一歩一歩足を踏み出す。その手に長い棒のようなものが握られていることに気付いた。なるほど、単なる迷い人ではないということか。ならば、より一層、歓迎してやらなければならない。

重低音が(とどろ)いた。開け放たれていた扉がひとりでに閉まる。彼は慌てて扉に取りつくが、その前に固く閉ざされてしまう。ガチャガチャと必死でノブを捻るが、扉は僅かな隙間さえ作らない。全ての窓は厚いカーテンで閉ざされ、建物の内部は闇が満ちる。私はゆっくりと彼に歩み寄る。

彼は背を扉につけ、注意深く私の方を睨みつけている。否、人間にはこの闇を見透かす事ができないから、正確には虚空を睨んでいると言ったほうが正しいのだろう。

私は見えていないのを知りつつ、礼儀として一礼する。そして、

「ようこそ、我がニヴァル城へ」

壁に取り付けられた燭台(しょくだい)蝋燭(ろうそく)に一斉に火がともる。暗闇の中、暴かれる私の姿。背を覆う、漆黒のマントが風もないのに大きく広がった。私は不敵な笑みを浮かべて少年を見下ろした。

その時だ。ひゅん、と風を切る音が響いた。私は咄嗟(とっさ)に数メートル後ろに飛び離れた。

私の足元に転がる塊。鼻先を撫でる独特な匂い。私はその正体を知った。私に向かって投げつけられたのはニンニクだった。吸血鬼がニンニクに弱いなどという迷信を信じている人間がまだいるとは。

私が視線を落としていたのは僅かな時間だが、彼はその間に私に駆け寄る。寸前まで私の身体があった空間に彼が手にしている棒が横薙ぎに振るわれた。

「礼儀を知らぬ人間だ」

首を竦めながら距離を取る。人様の家に侵入しておいて、ニンニクは投げつけるわ、棒を振ってくるわ。親の顔が見てみたいものだ。

「吸血鬼めっ。大人しく成敗されろ」

彼なりに、ビシッと決めたつもりなのだろうか。手にする棒を私のほうに突き出し、足は肩幅ほど開いて鋭い眼光を見せ付けているが、裾の長いローブを着ているため、なんとなく間抜けに見える。

「悪は滅びる!」

三文小説に出てくるような台詞を吐いて、再びニンニクを投げる。私はそれをいとも容易くかわしながら、少々面食らっていた。

今まで九十九人の手で九十九回滅んできた。その九十九人は皆、私に恐れを抱きながらも果敢(かかん)に戦いを挑んできた。あるものは白木の杭を手に、あるものは銀の銃弾を向け、あるものは聖水を携えて、あるものは多くの兵を引き連れて。

しかしながら、ニンニクを投げつけてくるようなは一人もいなかった。飛んできたニンニクを避けながら、私は呆れればいいのか馬鹿にすればいいのか、本気で悩んでいた。

「おのれ、ちょこまかと」

逃げ回る私を追ってニンニクを投げ続けていた彼の足が止まった。手にする棒を支えにし、なんとか立ってはいるが足取りはおぼつかない。どうやら、早くも――かなり早すぎるが――体力の限界が来たらしい。

「動くな。当らないだろうが」

荒い息を吐きながら叫ぶ。一体、どこにこれだけのニンニクを潜ませていたのか分からないが、私は足元に落ちていた一つを手に取った。彼に見えるように手で(もてあそ)びながら、鋭く伸びた爪先でその白い皮を引き裂いた。

彼が驚いたように目を瞬かせるのを視界の隅に捉えながら、白い皮の内側から一房を取り出す。そして、それを何ら躊躇いもなく口に含んで見せた。なんともいえない匂いと味が口の中に広がる。私は口の中に入れたことを後悔したが、一度食べたものを吐くなど紳士のマナーではない。私はそれに耐え、無理やり嚥下した。

彼の方を見てやれば、呆けた顔をして私を見つめている。私は口元に弧を描いた。

「改めて、ご挨拶といこうか。私はこのニヴァル城の主、ジェン・ニヴァル。良く来た客人(まろうど)。歓迎いたそう」

口の中が多少臭いがこの際、それは気にしないでおこう。

「さて、勇気あるお客人。不都合がなければ名前を教えてくれないかな」

私は出来るだけ、愛想良く見えるように笑顔を作る。私の目が彼の目を捉える。私の眼光が強まる。彼の眼が和らいだのが見て取れた。吸血鬼である私と目を合わせることの危険性を知らぬとは、とんだ討伐者だ。

「……俺は」

彼はどこか、夢を見るような眼差しで私の問いに答える。

名前――そう、名前は大事だ。なにせ、この客人は――。

「俺はクリストファー」

記念すべき百人目の討伐者なのだから。

「魔法使いだ」

「はっ?」

私は思わず、間抜けな声を漏らした。目線が外れる。彼は我に返ったように目を見開いた。驚愕の表情を浮かべているが、驚きたいのは私のほうだ。

魔法使い――魔女の別名でいわゆる魔術によって不可思議な力を駆使するもののことだ。

残念ながら、幾千年の齢を重ねる私でさえ、未だにお目に掛かった事はない。本当にいるのかさえ定かではないが、私が驚いたのはそれが理由ではない。

吸血鬼と魔法使いはある意味では同類だ。人間によって追われ、討伐される魔の存在。そして、吸血鬼を討伐するのも魔女を狩るのも、十字架の下に正義を歌う愚かな神の子。

「本当に魔法使いなのか?」

「どっからどうみてもそうだろ」

彼――クリストファーはそう言って手にする棒を構えて見せた。確かに、心臓に刺す杭にしては長すぎる上、先端が尖っていない。魔法の杖だと言いたいのだろうが、どこからどう見てもただの木の棒にしか見えない。ここはちゃんというべきなのか、敢えて無視するべきなのか、私は悩んだ。ここ数百年で一番の難問だった。

「魔法使いが吸血鬼退治するなんて話は聞いたことがないが。それに魔法使いと言うのは教会の手によって火あぶりにされるものだろう。その魔法使いがなぜ教会の手助けをするのだ」

「……えっ?」

「同じ魔に属するものでありながら、同類を討伐しようなどと思い立った理由を問う」

魔法使いが本当にいるのかどうか、私には分からないが推測で物事を判断することは愚かだ。だから、仮に魔法使いがいると判断し、尚且つ彼の言っていることが正しい場合、同類とも呼べる存在が討伐者の手助けをするその理由が気になった。

そう、この私が、彼がここにいたるまでの理由を知りたいと思ったのだ。自ら何かを知ろうと試みたのはいつ以来のことだったか。

私はじっと彼の言葉を待った。彼はどこか呆気にとられたような表情を浮かべ、私の顔をまじまじと見つめている。彼が口を開いたのは、かなりの時間が経ってからだった。

「魔法使いって正義の味方じゃないの?」

不安そうに声を縮め、機嫌を伺うように私の顔を覗きこむ。私はその言葉の意味をすぐに理解できなかった。何も言わない私に更に不安を駆られたのか、堰き切ったように彼は早口で言った。

「魔法使いってすごい力があるんだって。誰もが畏れて敬うくらいの。 だから、俺は魔法使いになろうと思って。で、魔法を使うには棒が必要だって聞いたから隣の家のマーミャ小母さんの家の木の枝を貰って。そしたら、ここに悪い吸血鬼がいるってが言ったからそいつを倒したら英雄で正義の味方になれるだろうと思って」

微妙に言葉がおかしい気もするが訂正を入れる気にはなれなかった。私は頭痛をこらえるように額を指で押さえた。まさか、記念すべき百人目の討伐者が頭のいかれた変人だったとは。思いもよらぬアクシデントだ。

「……それで魔術は使えたのか?」

「あー、それが。ちゃんと棒を振ってるのに使えないんだ」

使えるわけがない。木の棒を振って魔術が使えるなら全ての人間が魔法使いだ。

「えい、えい」と声を出して棒を振ってみる姿に私は堪えきれず、声を上げて笑ってしまった。紳士たるもの声を上げて笑うなどはしたないが、あまりにもおかしな行動が笑いのツボにはまってしまったようだった。

彼は急に笑い出した私を不思議そうな眼差しで見ていたが、その原因を悟ったのだろう顔を真っ赤にして棒を投げ出した。

「やめた……魔法使い、やめた!」

幼い子供がそうするように声を張り上げる。

「やめたんだから、笑うなよ」

「そう……は、言われ……ても」

真っ赤な顔では睨み付けても迫力はない。私はどうにか笑いを引っ込めようとする。腹が痛い。腹が痛くなるほど笑ったのはいつだったか。

風が切った。容赦ない速度で飛んできたニンニクを伸ばした手で掴む。笑い過ぎで、腹がじんじんするが、私は平素を装って顔を上げた。手に掴んだニンニクを床に落とす。

彼は両手にニンニクを持って全身で私を威嚇している。まるで毛を逆立てた猫のようだ。

「ニンニクは匂いと味は好みではないが、苦手とするものではない。それに食べ物を粗末にするのは良くないと思うが」

「黙れ、吸血鬼。俺はお前を退治するんだ」

どこか間の抜けた感じもするが、討伐者としての意思はあるらしい。ならば、なんの問題もない。私を滅ぼす意思があるのならば、頭のいかれた変人でも構わない。

私は懐に手を差し入れた。取り出したそれを見て、彼の表情が僅かに固くなる。

「や、やるって言うのか」

「…………」

私は笑みを顔に貼り付けたまま、それを彼に向けて放った。正確には彼の足元に向かって――。硬い音が響いて、石の床に銀のナイフが突き刺さった。少し長めのナイフには赤黒い血がこびりついている。

「私とて痛みは感じる。一撃で終わらせてくれるとありがたい」

「……えっ」

「炎に焼かれるのはかなりの苦痛を伴うのでな。あまり気持ちの良いものではないのだよ。心臓を一突きならば、一瞬にして灰に散れるので出来ればそうしてくれるほうが嬉しい」

私の言葉の意味を上手く飲み込めていないのか、彼は困惑したように何度も瞬きを繰り返していた。

私は時間を持て余していた。時間は全ての生き物にとって有限でけして無限ではない。全ての生き物は平等に死という終わりに向かって生き続けている。それは私たち吸血鬼も例外ではない。だが、吸血鬼のもつ有限の時間は他の生き物に比べて途轍もなく長いのだ。

「私を退治するのだろう」

私は床に刺さったナイフを指し示し、穏やかな口調で言う。彼は私とナイフに交互に視線を向ける。

昔の、若い頃の私は暴虐の限りを尽くし、太陽が眠る時間は私の天下だった。私は何も恐れず何も迷わず本能に従い、人間を追い回した。そう、若かったのだ。若く、愚かだった。

「それを私の心臓に突き刺すと良い。クリストファー……お前は英雄になれるぞ」

そのためにここまで来たのだろうと言外に告げて。何も躊躇うことなどないはずだ。私は心臓を突かれて灰に返る。少なくとも数十年は蘇ることはない。十数年――その期間、意思を持って過ごさなくっていいのだ。

若い頃は遥かに長い時を生きるこの身を、何度となく蘇るこの身を、誇りに思っていた。それが間違いだと気付いたのはいつだったか。

肉体が滅べば死する人間と違い、我が身は灰になり何度でも蘇る。いつか死することがあるかもしれないが、私にとって死とは限りなく遠いもの。その死が訪れるまでに与えられた長い時間。長い時間――私は何をしていればいいのか。暴虐に飽き、血に対する執着を失った時、私はどうしようもない虚無感に襲われた。なにをするべきなのか、何をして生きるべきなのかが分からなくなった。

退屈。そう退屈だ。私は生きることを退屈だと考えるようになった。だから、その退屈な時間を減らすために、討伐者に我が身を灰に変えてもらうことにしたのだ。

私は指先で自分の心臓の上を撫でた。

「ナイフを拾いたまえ。そしてここに突き立てると良い」

討伐者は私を退屈から解き放つ解放者だ。

私は待った。彼がナイフを手にするのを。私を解放するのを。だが――。

「変態!」

虚を突かれた。彼は怯えたように二・三歩、後ろに後退った。

「自分の心臓を突き刺せなんて、変態吸血鬼! マゾか、マゾなのか。それとも、自殺志願者か」

言い返そうとした口が、最後の一言によって閉ざされた。

「良く考えてみれば、生き血をすするって時点で変態だ。……ってことはまさか油断させて俺の血も啜る気だな。そうは行くか」

息巻いて彼はニンニクを投げる。私はそれを片手で払いながら、目の前の人間を改めてじっくりと眺めてみた。子供のような言い分をすると思えば、私の心を見透かすような一言を吐く。初めて人間が知性を持った生き物であることを私は知ったようだった。

「生憎だが、私はここ数百年、血は口にしていない」

足元に転がるニンニクを軽く蹴れば、彼のつま先に軽くぶつかった。それを拾い再び投げようとした彼はぴたりと動きを止めた。

「口にしてないって。じゃあ、何食ってんだよ」

「なにも」

「なにも?」

「そう、なにもだ」

するとだ。彼は明らかにうろたえたように左右を見回し、迷子の子供のように悲しげな表情を浮かべた。その変化の意味が分からず、私は黙って彼を観察するしかない。

「でも、お前は悪い吸血鬼で、吸血鬼っていうのは血を啜るんだろ?」

「私は今、ダイエット中でな」

「ダイエットって、何も食わないのは身体に悪いんだぞ」

不意に彼は手にしたニンニクを放りだした。探るような眼差しが私の皮膚を撫でていく。

「えっと、ミスター・ニヴァル」

「ジェンで良い。なんだね、クリストファー」

「俺もクリスで良い。……ジェン、はもしかして悪い吸血鬼じゃないのか?」

悪い、悪くないの違いがどこにあるのか。吸血行為自体を悪だと決めるならば、吸血鬼は悪だ。例え、吸血行為をしまいとも。それを説いたところでおそらくこの愚かでありながら知的でもある人間には分かるまい。私はそう判断し、それについては答えなかった。

「クリス。君は私を退治しにきたのだろう。だったら、その銀のナイフを手に取り、私の心臓に突き刺すと良い。そうすれば、君は名実共に英雄だ」

「……なんでそうやって退治させようとするわけ?」

わけが分からないと頭を軽く振ってクリスは言う。私は微笑んだ。

「退屈だからだよ」

その笑みが自嘲を含んでいる事にクリスは気付いただろうか。

「退屈で、退屈で仕方ない。だから、灰に返りたいのだ。灰に返れば、少なくともその時間だけは私は退屈を感じないで済む」

クリスには理解できないだろう。私の感じる「退屈」を。正義の味方だ、魔法使いだ、といって物見遊山気分で私を討伐しに来た人間なんかには。

「退屈? そりゃあ、この城の中にいたんじゃ退屈だろうけど」

鮮やかな笑みがクリスの顔に浮かんだ。まるで私の心など見透かしているといわんばかりの笑みが私の視界を埋め尽くす。

「外はものすごく広いんだって婆が言ってた。それこそ一生かけても見て回れないくらい。世界には俺の知らないものや知らないことがたくさんあるんだって」

世界は広い。退屈なんて感じないくらいとクリスは大仰に手を広げて言った。

どきり、とした。目から鱗とでもいうのか。私はかつてないくらいの衝撃に打ちのめされた。世界は広い。それは私も知っている。だが、私の世界はこの城と城の周辺の村町だけに限られていた。縄張りの外に出るなど考えたことがなかったのだ。吸血鬼としての本能が縄張りの外のことを考えさせないようにしていたのかもしれない。

「河を下ったところには海っていう大きな湖があって、遠くの国と繋がっているんだって。それから、山を三つ越えたところには王様が住むお城があってたくさんの人が暮らしている。そこには珍しい食べ物とかがいっぱいあるんだって婆が言ってた。今は無理だけど、いつかお金を貯めてそういうところに行って見たいんだ」

クリスは真剣な口調で、夢を見るような眼差しで、喜々として私にそれを聞かせた。嬉しそうな口調。そこには「退屈」の文字など微かにも垣間見る事はできない。

らしくもなく、そんなクリスを私は羨ましいと感じた。感じると同時にそれを否定するように頭を振る。人間を羨ましがるなんて。だが、クリスの言葉が、クリスの存在が私を揺さぶる。

「退屈なら外に出ればいいじゃん。外には楽しいことがたくさんあるよ」

クリスは私に歩み寄る。そして――。

「一緒に外に出ようぜ」

差し出された手が、蝋燭の明かりの下に浮かび上がる。

一緒に外に出よう――それは私には甘美な誘いのように思われた。私は光に誘われる虫のごとく、手を伸ばしかけたが。

重く低い音が轟いた。眩いばかりの光が玄関からホールを照らす。固く閉ざされていた扉が開き、視界に飛び込んできたのは透けるような空の青。

「クリス、無事か!」

「叔父さん」

鼓膜を打つ、野太い声。クリスの顔が開かれた扉の方に向けられる。

眩い日差し。いつの間にか昼近くになっていたようだ。私は自分の身体を支えきれずにその場に膝をついた。むき出しの顔と手の平から白煙がのぼる。なんてことだ。

「こいつが吸血鬼か」

ガチャリと響く金属音。銃でも構えたのだろうか。光に焼かれた目ではそれを確認する事すらできない。

罠だったのか。クリスの行動は全て私を油断させるための罠だったのか。クリスに集中していたせいで私は城に近付く他の人間に気付かなかった。扉が開け放たれるその寸前まで気付けなかった。

あぁ、なんてことだ。一瞬でもクリスの言葉にとらわれたなど一生の不覚だ。

床に付いた膝が焼ける。光は服の下の肌を焼き、私の身体は表面から灰へと変わっていく。まんまと人間に一杯食わされたわけだが、結局は私の望んだ通りになったのだ。何を不満に思うこともない。私は声を上げる事も出来ず、無様に床に倒れこむ。

「ジェン!」

片方だけ、まだ灰になっていない耳にクリスの声が響いたのはその時だ。崩れゆく私に誰かが触れるのを感じた。

「クリス、危ないから離れろ。そいつは危険だ」

「叔父さん。扉を閉めて。ジェンが灰に……」

「なにを馬鹿なことを。そいつは吸血鬼だ」

遠くなった耳に届く言葉の応酬。滅びかけた胸の上になにかが零れ落ちたのを感じた。

「ジェン、ジェン。しっかりしろ!」

必死の懇願。私は笑みを浮かべた。もっとも、笑みに見えたかはわからないが。

「一緒に外に行くんだろ! 灰になんかなってる場合じゃないだろ」

本気だったのか。本気で私が、一緒に外にいくとクリスは思っていたのか。一緒に外へ行こうと言う言葉は私を騙すための嘘ではなかったのか。

「なぁ、ジェン! しっかりしろよ」

クリスの声が段々と悲痛を帯びてくるのが分かる。それに比例して形を失っていく身体。クリスの声が遠くなる。呆気なく、灰へと変わっていく。

「ジェンっ!」

その叫びを最後に私の意識は途絶えた。

強い風が吹いた。私の身体は散る。一山の灰となり、私は百人目の討伐者の腕の中で、百度目の灰となった。

◆◆◆◆◆

「ジェン、見た? 今のすげくねぇ」

甲高い子供の声が甲板の上で響く。

夜空には銀の円盤が輝き、その下の海を静かに照らしている。ざわめきを散らす波が木の葉を揺らすように船を揺らめかす。時折、波の間を飛び交う魚が銀色のきらめきを見せるたび、子供の口から感嘆の叫びが漏れた。

夜の世界は私の天下だが、動く水は私にとって少々都合が悪い。出来れば、室内に引きこもっていたいのだが、幼い子供を残して戻るわけにはいかない。

「そんなに身を乗り出しては海に落ちてしまう。それから『すげくねぇ』なんて乱暴な言葉はお止めなさい」

甲板の柵から身を乗り出すようにして海を眺めていたその小さな子供の肩を掴む。子供は海風に煽られて赤く染まった頬を膨らませた。

「ジェンまで母さんみたいなことを言うなよ」

「そういうリックは、昔のクリスそっくりだな」

向こう見ずな無鉄砲さはクリス譲りだと確信している。やんちゃな小僧からは一時たりとも目が放せない。

「リック、そろそろ寝る時間だぞ」

背に掛かる声。リックは元気良く返事を返すと私の手から離れ駆け出す。私はその後ろ姿を見送った後、暗い海に視線を投げた。

まさか、吸血鬼である私が海を渡る日が来るとは、城から出て人間と行動する事となるとは数十年前には夢にも思わなかった。その上、人間の子供の面倒を見ることとなるとは。

「ジェン」

感慨にふけっていた私の後ろに近付く気配。私は振り返らず、夜の海を見つめ続ける。私に並ぶように柵に身を預けて、同じように彼は海に視線を向ける。

「海って湖じゃなくって海なんだな」

ぽつり、と独り言を漏らすように彼は呟いた。私は思わず笑い声を漏らした。

「なにがおかしいんだよ」

一児の父となったというのに、彼の言動は昔のなごりを引きずっている。それが好ましくもあり、同時に変わっていないという安堵感が広がる。

「いや、相変わらず、突飛なことを言うと思ってね」

「うるせー」

「クリス、乱暴な言葉を使うのはよしなさい。リックが真似をする」

「…………」

彼――クリスはむくれたように黙り込んだ。

 

私は灰になった。日の光に焼かれ、その身体を灰に返した。私の城の玄関で、出会ったばかりの少年の腕の中で、私は灰に返った。

だが、一つにまとめられた灰が棺桶の中に置かれていたためか、私は十数年の後、再び蘇った。それから数年、今日、海の向こうの大陸を目指して出航したのだ。――彼らと共に。

 

「子供の成長というものは早いものだな」

「……それって俺のこと。それともリック?」

「両方だ」

あの日、私を退治しに来た少年は父親となった。その子供を蘇ってから、ずっと見守り続けている。本来ならば捕食者である私がだ。

「なぁ」

すっかり一人前の男となったクリスが言う。

「ジェンは、退屈してるか?」

時間を持て余すあまり、自ら灰になることを望んでいた頃が遠く感じられる。私は口元を歪めた。

「生憎、退屈なんてしている暇はないのでな」

世界は広い。どこまでも続く空の下に生きる世界。退屈なんて言葉はどこかに落としてきた。

『一緒に外に出ようぜ』

その言葉が私から退屈を取り払った。

「リックが騒ぎ出す前に戻るか」

大きく背伸びをし、踵を返す背に私は並ぶ。長く生きてみるものだと思う。でなければ、私は退屈のまま死を迎えていただろうから。

明日は何が起こるのか。私はひっそりと微笑んだ。

 

 

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